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聖宗(せいそう)は、契丹(遼)の第6代皇帝。諱は文殊奴。智勇兼備の名君と伝わる。 == 生涯 == 第5代皇帝・景宗の長男。12歳で即位し、統和元年(983年)に国号を大遼から大契丹に改めた。治世前半は母の承天皇太后(睿智皇后蕭綽)や父帝の代からの家臣団の補佐による執政体制であり、30代より親政を開始した。東辺では女真族を、西辺では西夏と協力しウイグル人の西域諸国を服従させた。 統和22年(1004年)には大軍を率いて親征を行ない、北宋領の黄河河畔(現在の河北省)に侵攻した。これに対して宋は真宗の親征軍が迎撃したため、両軍は黄河を挟んで対峙した。しかし膠着状態が続いたため同年に澶淵の盟を締結して両軍は撤退した。これ以降、契丹は宋に対し兄事する関係となり、宋から毎年贈り物(歳弊)を贈られることとなった。 ただ、高麗について北宋との断交と契丹の年号を使用することを取り付けたが、その代償として江東6州を割譲しなければならなかった〔姜(2006)〕。その後、要衝である江東6州の奪還を目指して、何回か兵を送ったが、開泰7年(1018年)に高麗の名将姜邯賛に大敗し、侵攻を諦めて開泰9年(1020年)に両国で講和が結ばれた〔(契丹の高麗侵攻も参照)。講和において高麗が江東6州を領有することを認めたが、一方で高麗は再び契丹の年号を使用し、その冊封を受けることになったため高麗が宋と結んで遼の背後を脅かす危険性を取り除くことができた。 治世後半においては国内の内政・軍事の組織化に尽力し、中央集権化を推進して、契丹の全盛期を招来した。太平11年(1031年)に61歳で崩御すると、長男の只骨が皇位を継承して興宗となった。陵墓は慶州(現在のバイリン右旗白塔子村)近郊にある。 聖宗の中央集権化により国力を充実させた契丹は、興宗、道宗の時代まで全盛期が続いた。中国歴代皇帝の中で「聖」の文字を含む廟号が、清の康熙帝(廟号は聖祖)と、遼最盛期の皇帝であるこの聖宗の、僅か二人にしか与えられていないことからも窺える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「聖宗 (遼)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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